物語はなくならない。そして哲学も。

それは突然に起こる

娘の同級生の子が亡くなりました。自死でした。ニュースですでに知っていたその出来事が、娘の同じクラスの子だったと後で知り、その子のお母さんの気持ちを想いました。お母さんとは一度だけ懇談会でお会いしたことがあります。すごく細くて繊細な印象の方でした。お子さん思いで、お子さんの性格をよく理解されてるんだろうな、とその話ぶりから感じました。今どうされているんだろう。対応に追われ、感情も乱れ、とても苦しんでいるんじゃないだろうか。今生きている感覚もないかもしれない。ずっと泣いてらっしゃるのかもしれない。悲しみは計り知れない。同じ親として何かできるんじゃないか、手紙を書くのはどうか、そんなことも考えました。でも、そうはしませんでした。今一体何を言えばいいのか、、、結局その言葉が見つからなかったのです。私は一人泣き、その子の冥福とお母さんお父さんをはじめ身近な方々、クラスの先生や娘、友達の平穏を祈りました。どうか今はそれどころじゃなくとも、少しづつ、ご自分の深い呼吸ができるようになりますように。

亡くなったその子のことも想像しました。学校は入学してほどなく、ずっと休みがちだったそうです。日々をどう過ごし、何を食べていたんだろう。何を見て、何を想っていたんだろう。自死すると決めて実行する、その時は、、、。休みがちになる前、クラスでの様子を思い出したように娘が話してくれました。それを聞いては彼の姿を想像しました。スマホにその子の写真も残っていました。屈託のない笑顔。部活にも入っていたそうです。ついさっきまで一緒にいたのに。同じ教室にいたのに。今はもういない。彼がいなくなるその瞬間や身体を想像して、私の心はぐちゃぐちゃになりました。私はこの苦しみをどうしたらいいのかわからず、泣きました。

彼はどこへ行ってしまったのか。

 ここからの私の考察はかなり現実(浮世?)離れしているのかもしれません。書きながら何度もそう思ったし、どう言う思考回路だったのか、自分のことながらはっきりわからないのです。ただその時は心から彼を悼もうと、娘、いろんな方と話をしながら、また、さまざまな物語の力を借りながら少しづつ気持ちを整理しようとしていたのだと思うのです・・・。

 はその後、どこへ行ってしまったのだろう。そう思いを巡らせ至ったのが、彼には行きたい時代、場所があったのではないか、ということでした。私たちの住む世界は、すぐ横に、無限に同じように進む世界(でも全く同じではなく少しづつ違う)、パラレルワールドがあるらしい。彼はそこに時空を飛び越えて行きたかったんじゃないか、と。その想像は新海誠監督「君の名は」のビジュアルを借りてかなり鮮明に描きました。娘たちとあらすじを改めてすり合わせました。話しながら理解していたつもりの物語があやふやになり、また組み立て直すことになりました。三葉と瀧君は、同時代で入れ替わったわけではないのです。三葉の亡くなる3年前と、瀧君の生きる現在(3年後)の時空を飛び越えたところがこの物語をミステリアスにも、スリリングにもしています。自死することで身体から離れた彼はそのようにして行きたい時代(時間)、場所へ行ったのかもしれない。そこへ行ける保証はどこにもないじゃない、と言われました。もちろんそうです。でも人の想いは全てを可能にする(それが純粋であればあるほど)と私は思っているのです。もうひとつ。毎朝目覚める時、私たちは無意識に意図して、昨日の延長上に自分がいるように選択しているんじゃないか、と観じたことがあります。つまり昨日が2022年5月15日なら、今日は2022年5月16日、と言うふうに。実は私たちは時空を自由自在に行き来できるにも関わらず、まさに今を、今日を意図して選んでいる・・・(あるいは宇宙意思で思わされていると言ってもいいかもしれません。)だとすると毎朝ここで起きて、この時代に生きて成し遂げるべきことがきっとあるんだろう、と。彼はその理由を今ここには見出さなかったのかもしれない、とも思いました。

わたしのそもそもと、ヨガ哲学と

 これは私のそもそもの思考?思想?をかなり炙り出しました。生きていれば、辛いこと、苦しいこと、思い通りにはならないことがたくさんある、それは知っています。でもすべて大丈夫。本当に大丈夫。この根拠のない想いが根底にあるのです。理由はわたしの肚がそう言っているからなのです。肚とは私が日々ご案内、お伝えしている肚ヨガの「肚」です。詳しくはこちらのホームページ「肚ヨガとは」を読んでいただくことにして、私は日々そのようにして生きております。そしてその大丈夫はどれくらい大丈夫かというと、死んでも大丈夫、というものなのです。

 え?死んだらオワリでしょ?そうです。それも間違ってはいないです。オワリなのは今回生きているこの身体はオワリ、です。でも全てが終わりかどうか、それは死んでみないとわからない。死んでもわからないかもしれない。そしてそれは今のところ誰にも分からないことなのです。そのあたりをヨガ哲学では、『私たちのアートマン=魂はきっちりすっぱり悟り、カルマ(身体を得てなすべき行為)を終えるまで永遠に生まれ変わり続ける』と考えています。だからこそ、彼の死はある種積極的な、魂の一つの過程の選択肢としてあったのかもしれない、と思えたのです。

では苦しみはどこへ行ってしまったのか。

 「ドライブ・マイ・カー」という映画を観ました。村上春樹氏の原作を元に編み直し、一つの長編として作られた映画です。悲しみ、苦しみを生きる登場人物たち。物語はその苦しみの先、ラストに向けてゆっくりと進みます。意図して感情を抑えた言葉。音の余白。身体の移動、運動。景色の美しさ。生身の人間を通した表現。一つ一つが丁寧に紡がれた物語に身を委ね、私は泣きに泣きました。私たちの生きる世界は、はるか昔から苦しみに満ちていて、悲しみに溢れている・・・それを本当にしみじみと思い出させてくれました。

だからこそ、亡くなった彼本人はホッとしているかもしれないね。

その彼は、人生というゲームを降りることを私たちにも否定しないかもしれないね。

ある方からそんな言葉をかけられ私はハッと息を飲みました。映画内で演出されていたツェーホフの「ワーニャおじさん」のセリフと重なったからです。(映画では手話を通して表現されていました。それも素晴らしかった。)

「こうやって私たちは生きて、やがて死ぬ時がきたら文句も言わず死ぬのです。その時ようやくほぅっと息をつくのです。そうして神に言うのです。私たちは苦しみました。私たちは泣きましたって・・・。」

彼がほぅっとして、静かに眠る姿。生きることを終えた姿・・・。そこにいいも悪いも、正しい間違ってるも、苦しみ、悲しみ、希望、愛、どんな言葉も、何一つ、必要ないのでした。ただただ、静寂だけがあるのでした。

「神」はお怒りか。

 たちは生きなければならない!この命は神から授かったものなのだ!神はお怒りだ!悪いことはしてはならない!悪いことをするときっと罰が下る!という神は、その姿形、好みまで私たちは詳細に知っている。なぜなら当の私たち自身が考えた、ニンゲンにとって都合の良い「神」だから。

 ニカよくわからない、得体の知れない、多分宇宙とかそういうものを体現しているのか統治しているのか、宇宙そのものなのか、やっぱり得体が知れないからよくわからない、という「神」もいる。

わたしたちこうして二つ(二人)の神を持っているとユヴァル・ノア・ハラリ氏が言っていました。言い得て妙。そして多分本当の?(そんなものがいるとして)の神はきっと後者ですよね。私はそう思います。八百万の神。ヨガ哲学ではブラフマン。

 猫の姿をした神が出てきました。「すずめの戸締り」という映画にです。猫は言いました。「地震が起こったら、また、たっくさんのにんげんが死ぬね。」それは神にとっていいことでも、悪いことでもない。恐ろしい、怖いことと思っているのは人間だけ、と気付かされるシーンです。それでも人間と追いかけっこをしている神を観ていて、人間を嫌いな神はいないな、と思わずにはいられませんでした。だって人間がいなければ自分達も存在できないのだから。生きつ死につしながら不器用に命を繋ぐ人間を、神は愛している。私はこの映画でそう確信しました。そう、だから、すべては大丈夫、ということになるのです。大丈夫じゃないことが起こっても、大丈夫なのです。当事者になったらそんなものは吹っ飛ぶでしょう。我を失い大声で泣き喚き、物語なんて、哲学なんて、なんの力も持たないでしょう。それでもなくなりはしません。これから先も物語は語られ、人の幸せを考える哲学も興り続けるでしょう。それを通して、私たちは、自分達の生きる世界と出会い直し、また生きつ、死につ、生きてゆくのだと思います。

二〇二三年三月二十五日 記 増田さやか